朝は苦手だ。苦手なのでついつい家を出る時間がギリになってしまう。今朝も、まだ朦朧状態の脳をスカパラで励ましながら家を出てエレベーターに乗った。私はかなり高層の部屋に住んでいるので下まで行くのに時間がかかるのだ。私の乗ったフロアから2つ下のフロアで女のヒトが乗ってきた。年齢は30歳位?きちんとしたごく普通の女のヒトだ。乗り込む時に私に向かって爽やかに「おはようございます!」と挨拶をしてくれた。
私は、朝も、知らないヒトの爽やかな挨拶も苦手なので、こんな場合はゆるく微笑んで軽い会釈をすることに決めている。ここへ住んで3年。それでさしたるトラブルもなくやってきた。でもこの女のヒトはちょっと違っていた。ものすごく立腹した表情を浮かべ大声で「おはようございますっ!おはようございますっ!おはようございますっ!」と3回連呼。
怒りに震えるその目は私を凝視。要するに、自分と同じレベルの挨拶を返されなかったことに立腹しているみたいなのだった。
その立腹パワーに尋常じゃないモノを感じ、恐ろしくなった私は、MDから流れるスカパラを一時停止して、ぼそぼそと小声で「お、おは、おはよーございます……」と言い直した。言い直したのに、その女のヒトは「変な人!」と私を罵倒したのだった。素直に言い直したにもかかわらず、この仕打ちはいかがなものか?と思った私は「強要されるモンなんですかねぇ、こーいうの」と軽めのジャブを。すると彼女は何かに取り憑かれたかのように「そう!そうよっ!強要することじゃないわよね!ええっ!ええっ!確かにそうよっ!」と絶叫。目は完全にイってしまっている。この段階にきて初めて私は「本モノなのかも、このヒト」という新たな恐怖に襲われて、彼女から一番距離を取れる壁にビッタシ張り付いてビビリまくっていたのだった。
と、また別のフロアでエレベーターが止まり、男子高校生が乗ってきた。彼女はすかさず彼に「おはようございます!」爆弾を投げる。が、予想通り彼はそれを無視。会釈さえなし。これはさっきの私よりマズイパターンじゃないか?彼は彼女にどう説教されるのか?私が彼女の次の動きを固唾をのんで見守っていると、男子高校生に向けていた視線をクリッと私の方へけ、なぜか私を睨みつけている。え?今、アナタ的にダメダメな挨拶をしたのはその子でしょ?なんで私を睨む?と、不愉快になった私は、負けるもんかと逆に彼女を睨みつける。思うに、彼女は男子高校生にあっさり無視された現場の一部始終を私に目撃されて、恥ずかしかったようなのだ。それをごまかすための「睨み」なワケだ。
一歩も引かない私に根負けしたのか、「はぁ~~」というため息をつき、携帯を出していじり始めた彼女。もしや、私を撮影するのでは?と焦ったが、そうではないようだ。やっとのことで1階に到着。ドアが開く。毎朝ギリな私はここからダッシュしないと乗る予定の電車に間に合わないので、一気にスパートをかける。と、彼女も張り合うようにカツカツカツカツとヒールで走り出した。その音がなんかコワイ。外は大雪で地面はつるつるだ。だんだんと彼女のヒール音が遠くなる。駅近くの斜面に差しかかった時、「フフフ。あのヒールじゃここ、下りられないだろうな」と、雪用スニーカーで斜面を駆け下りながら、やっと私は理不尽な恐怖から解放されたのだった。
この話を劇団員にすると「椎名さんの周りってなんでそういう変人ばっかなんですか?」と。あまり信じてない様子。けど、これ、作り話じゃないからね、本当にあった話だからね。
稽古の帰り、道ばたになぜかリンゴが1個落ちていた。周りに誰もいなかったので拾う。帰宅して食べたら普通にリンゴで美味しかった。しばし、みみっちい喜びに浸る。